久田家久田流~両替町久田家~

茶道久田流に就いて

久田流~両替町久田家~歴代について

久田家の家祖は清和源氏の流れを汲む武士の家柄です。近世の祖実房は6孫王経基3男武蔵守満季8世高屋次郎実遠孫御園四郎範広11世です。久田家は滋賀県蒲郡発生で、千家とは姻戚関係にあり、表千家、裏千家、武者小路千家とも養子縁組をしてきた茶家です。久田家には両替町久田家と高倉久田家があり、久田流は両替町久田家が継承しております。

実房

名は久田刑部少輔で、本姓は岸下です。守護大名佐々木義実(室町末期)の親族であり、佐々木義実に仕えました。義実の「実」の字を拝領し実房と名乗ったとされています。近江国蒲生郡久田村に住む武将で、近江から京都に移ります。京都に移った後は本間又は雛屋と称し、姓を久田と改めました。千利休の妹宗円を娶ります。宗円が久田家に嫁ぐ際、利休は二十歳ほど年の離れた妹宗円のために自ら茶杓を削って「大振袖」と銘を付け、婦人向けの点前を設けて婦人点前と称して書に記した「婦人シツケ点前一巻」と共に授けたと言い伝えられております。

初代 宗栄(房政)(1558~1624)

安土桃山、江戸時代の茶人で久田家の初代です。宗栄の父は久田実房、母は利休の妹宗円です。名は房政で通称は新八です。初め宗玄と号しましたが、剃髪してからは宗栄と号しました。茶法を伯父の利休に学び、豊臣秀吉が催した北野大茶会にも参加しております。『茶の湯人物事典 世界文化社編』に『宗栄は、天正15年(1578)10月1日に催された北野大茶会では、紙屋川畔に釜を懸け、夢窓国師の墨蹟を掛けて、公家や大名に伍して茶席を設け、大いに面目を施したという。その様子は、幕末の絵師である浮田一蕙が描いた北野大茶湯之図の右下端にはっきりとみえている。』とあります。

宗栄は秀吉の命により茶道を職務とし、京都の両替町に邸地を賜り代々同所に住むことになりましたので、久田流においては房政を以てその初代としております。当時有名な茶人であったと言われております。

二代 宗利(常房)(1610~1685)

宗栄の長男で名を久田新兵衛、宗利と号します。別号に受得斎があります。茶法を表千家3代の千宗旦に学び、宗旦の娘暮子を娶りました。二男二女を挙げ、長男は三代徳誉宗全であり、次男は表千家5代随流斎宗佐で、表千家4代の江岑宗佐を継ぐ為に千家の養子となりました。


久田家家系図 及び表千家との関係図(PDF)

宗利は長命で寛永元年に75才で亡くなりました。宗利の弟久田清兵衛は宗旦四天王の一人に数えられた藤村庸軒として知られております。藤村宗徳を継ぐ為に藤村家の養子となりました。

三代 德誉宗全(1646~1707)

宗利の長男で名を久田勘兵衛、得誉斎と号します。また半床庵と号しました。母は、宗旦の娘の暮子です。弟久田源三郎は表千家5代随流斎宗佐です。宗全の長男が12才で表千家6代覚々斎(原叟)として千家を継ぐことになり、宗全はその後見人として千家のために尽くしました。晩年は事実上の三千家の長老の立場にあったと言われております。手工に秀で自造の花入「宗全籠」は一般に大変よく知られております。

好みの道具が残っており、棗類では、吉野棗、菊平棗、山の端棗などがあります。炭取は菊置上、達磨炭取、平菜籠などがあります。花入は宗全籠、蝉籠、網残し籠、振り振り籠などがあります。他に楽茶碗や赤楽灰匙など、また茶杓も残っています。茶の湯に優れた足跡を残し、千家との関係を深めた宗全は久田流茶道に隆盛をもたらせました。宝永4年61才で亡くなりました。両替町久田家では宗全が号した半床庵の号を代々用いています。

四代 半庵宗也(1680~1744)

宗全の次男で不及斎と号します。宗全の長男は千家の養子となり、覚々斎(原叟宗左)として表千家6代となりました。宗也は、宗全の「茶は貴賤貧富の別なく金殿玉楼に茶あり 莚戸前にも茶あり 云々」という言葉を用い、久田に於いて敢えて勝手の順逆を言わず左勝手も右勝手もそれぞれの場所に応じて自由に用いるのはこれに拠るとして、宗全の築いた久田流茶道を大成致しました。隠遁後は高倉に居住しました。掛物、花入、茶碗、茶杓、薄器などの好みの道具が残っております。延享元年に64才で亡くなりました。

五代 芳煙宗玄(1708~1765)

不及斎宗也の長男で厚比斎と号します。茶法を父宗也に学びました。両替町竹屋町に居住し久田流を提唱しました。自作の茶杓が残っております。明和2年に57才で亡くなりました。弟は久田宗悦で、元文5年に別家して高倉に居住し、代々半庵の号を用います。

六代 磻翁宗渓(1742~1785)

久田宗悦(四代不及斎宗也の弟)の長男で挹泉斎と号します。宗玄を継ぐ為に高倉から両替町に入りました。後に高倉に居住しました。周りに自筆の歌を施した、歌銘の雪吹(薄器)や竹置筒花入などが残っております。天明5年に43才で亡くなりました。宗渓の長男は表千家9代了々斎です。表千家8代啐啄斎を継ぐ為に千家の養子となりました。

七代 祖君宗参(1749~1800)

宗渓の弟で松雲、関斎、追遠居と号します。宗渓を継ぐ為に高倉から両替町に入りました。宗参は三重県四日市、兵庫県赤穂市また東海地方などを回り久田流を広めました。当時、茶の湯を宗参に師事していた赤穂の大塩田地主田淵家五代九兵衛氏に依頼されて、宗参が造ったと言われる茶室「春陰斎」と露地(茶庭)が残っており、この茶室と茶庭を含む広大な田淵邸は国の名勝に指定されております。『国指定名勝 田淵氏庭園 赤穂市文化振興財団編』(※1)によると『茶匠・久田宗参の作事』として『田淵家は代々茶の湯を嗜んでいるが、春元の子・政武(五代九兵衛)は、特に茶を好み、京の茶匠久田宗参に師事した。そして、明和元年に、宗参に依頼して茶席「春陰斎」を造立し、合わせて露地(茶庭)も作ったという。 中略 田淵家に残る茶会記をみると、日常的に頻繁に釜が懸けられており、久田宗参などの家元も再三に渡って来訪されていることから、書院庭は、宗参亡きあと、久田耕甫に引き継がれ、彼の指導の下に整備された可能性が高い。 中略 両替町久田家の茶風の形成は、宗参に負うところが大であったといわれ、茶席や露地を指導する機会も多かったと思われる。田淵家の庭園は、露地・書院庭園ともに一つの庭としての融合を示しており、全体が茶趣の上に構成されている点などから考えて、建築群と共に誠に貴重なものであり、また茶匠久田宗参および耕甫の二代に渡る作庭となると、その価値は極めて高いといえよう。 中略 春陰斎は田淵邸の中心となる茶室である。にじり口を入ると板間があり、茶室は二畳台目で、天井には突き上げ窓が設けてあるなどすべて真の形式を踏まえたものとなっている。役石や飛石にも派手さはなく、素朴で、それでいて優美さが漂う。』とあります。宗参の頃に久田流は隆盛を極めたと言われ、宗参好みの道具や消息文も残っております。『茶道寶鑑 青山堂書房』には久田宗三図一畳大目とあり茶室及庭園図に当時の半床庵の間取りを見ることが出来ます。

それは、二畳台目に向板を配して、床の間を下座に、炉は右勝手の向切に構えています。宗全好みの「天の川席」で、特徴である簀子張が点前座の後ろに見え、床の間は「半床庵」の由来といわれる半畳(半床)の大きさになっています。寛政12年に51才で亡くなりました。

※1 国指定名勝 田淵氏庭園
発行 (財)赤穂市文化振興財団
第一刷 平成七年十一月

八代 春斎耕甫(1751~1820)

宗参の子の友之助早世により宗参を継ぐ為に筑田家から久田家の養子となりました。天明の大火により両替町の屋敷を焼失しますが、知多半島大野村(常滑)の豪商である浜島伝右衛門氏の援助により再建いたします。耕甫は本宅再建までの数年、浜島家に滞在しながら知多半島に久田流の点前を広めました。手工に秀で自造の道具や好みの道具(掛物、消息文、花入、茶碗、茶杓、薄器、蓋置等)が残っております。また、浜島家滞在中に造ったと思われる常滑焼の水指や建水なども残っており、底には花押と共に「於常滑造之」の文字を見ることが出来ます。文政3年69才で亡くなりました。

九代 東籬慶三(~1845)

芸藩(安芸)三谷宗鎮の子で耕甫を継ぐ為に久田家の養子となりました。耕甫と遊んだと言われる播州赤穂で弘化2年に亡くなりました。

十代 石翁宗員(1790~1868)

辻川喜右衛門の子で慶三を継ぐ為に久田家の養子となりました。名を耕隆、朗斎と号します。元治元年7月19日、蛤御門の変の兵火により両替町が焼亡しました。手工に秀で自造の道具や好みの道具(掛物、花入、水指、茶碗、茶杓、薄器等)が残っております。慶応4年78才で亡くなりました。

十一代 無尽宗有(1812~1889)

三河大給主、田代宗筌の子で裏千家11代玄々斎の甥にあたります。石翁を継ぐ為に久田家の養子となりました。無尽と号します。嘉彰親王の眷顧を得て法橋の称号を授けられ、御所参入の沙汰を被るとされています。明治元年養父石翁が亡くなり、明治2年1月に大阪に移りますが、明治10年11月東京浅草の北清島町に居住します。明治18年からの伊藤並根氏の懐石付により、東京での活躍が知られます。宗有好みの風炉先や茶碗などが残っております。

明治22年77才で亡くなりました。

十二代 無隅宗円(1857~1904)

宗有の長男で、遊林斎、半床庵、無隅と号します。茶法を父に学びました。好みの一閑張折留棗や父宗有七回忌の為に自ら菊を描いた、菊置上扇面香合が残っております。明治37年三重県四日市沖ノ島にて47才で亡くなりました。

十三代 半床庵宗栄(1889~1957)

宗円の長男で、母は兵庫県三原郡沼島村出身、荒井与惣長女もむです。浅草に生まれ、三重県四日市の学校を卒業しました。15才で父宗円を亡くしてから東京に居住します。北品川の川越守男氏に茶法を学ぶと共に、当時半床庵のあった文京区駒込久米邸にて福地幽斎氏に茶法を学びました。大正15年に家督相続の披露式を行いました。十三代宗栄の時代には宗全の命日である5月6日に宗全忌茶会を開催しておりました。また、十三代宗栄は世田谷の昭和信用組合設立に携わったとされています。自造の一閑張盆が残っております。昭和32年杉並区堀ノ内にて68才で亡くなりました。

十四代 半床庵宗栄(1916~1994)

十三代宗栄の長男で東京下谷に生まれました。忙しい父に代わり川越守男氏に茶法を学びました。大東亜戦争で邸宅を焼失いたします。川越氏死去により、藤井景保氏(川越氏の教え子)が久田流後見となりました。昭和31年に名古屋の新聞社から連絡があり、初めて名古屋の久田流門人と会合を持ちます。数年かけて名古屋久田流との統合に向け、何度も名古屋に出向いて話合いを重ねますが、残念ながら合意には至りませんでした。昭和38年に名古屋にて襲名茶会を行いました。昭和44年6月に久田流栄和会が発会いたします。中島飛行機に勤めたこともあり、製図を描くなど細かい作業を得意とし、手先が大変器用で久田好みの東福寺棚、竹棚、宗栄好み風炉先などを作りました。

また、江川拙斎氏に師事し楽焼を学び茶碗、硯屏、蓋置などを作り、田中穂山氏の長生窯(千葉)、東松山窯(埼玉)でも茶碗、硯屏等を作陶しております。自作の茶杓など好みの道具が残っております。平成6年杉並区堀ノ内にて78才で亡くなりました。

十五代 半床庵宗豊(1950~)

金原小三郎の三男で十四代宗栄を継ぐ為に昭和60年1月に久田家の養子となりました。茶法を父宗栄に学びました。平成9年11月八芳園壺中庵にて襲名披露茶会を行い、翌10年4月犬山有楽苑、犬山ホテルにて襲名披露を行いました。平成12年に久田流栄和会30周年記念祝賀会を杉並会館にて行いました。平成18年5月新高輪プリンスホテル茶室惠庵に於いて、久田宗全三百回忌追善茶会を行いました。平成18年11月に十四代宗栄の十三回忌追善茶会、平成22年10月に十四代宗栄の十七回忌追善茶会を共に高田馬場茶道会館にて行いました。久田流では宗全を流祖として、毎年宗全の命日である5月6日前後に宗全の遺徳を偲び「宗全忌茶会」を開催致しております。